ボストン出身のロックバンド

アメリカを代表するボストン出身のロックバンドをご紹介します。

ボストン Boston

ボストンのロックバンド名からしてボストン出身とわかるグループ。バンドと言っても、作詞作曲、編曲からレコーディングエンジニアまでこなすマルチプレイヤーのトム・ショルツがレコーディングの質を上げ、ライブが出来るようにメンバーを集めてグループにした、トム・ショルツのソロ・プロジェクトの為のユニットのようなグループ。しかし、トム・ショルツは個人名義ではリリースせず、必ずボストンとしてアルバムをリリースする。
1976年ファーストアルバム『ボストン BOSTON』をリリース。キャッチ―なメロディーを重厚なサウンドで奏でるスタイルは当時では斬新で、全米3位になり100万枚を売り上げる。特にギターサウンドは、オリジナルもしくはカスタムされたエフェクターが使われ、独特のサウンドを響かせる。実は、トム・ショルツはマサチューセッツ工科大の卒業生で、ポラロイド社に務めるプロダクト・エンジニアであった。電気的なサウンドを何重にも重ねたサウンドであるにも関わらず、リズムボックスやシンセサイザーは一切使っておらず、アルバムにクレジットされた「No Synthesizers Used」「No Computers Used」の文言に世間は驚くしかなかった。このアメージングなファーストアルバムは、長年に渡り世代を超えて聞き継がれ2003年までに通算1700万枚のセールスを記録する。
1978年にリリースしたセカンド・アルバム『ドント・ルック・バック』も全米1位の大ヒットとなるが、3作目はなかなか発表されなかった。自分の出したい音の為にエフェクターを自作しているとか、地下にあるレコーディングスタジオが洪水で使えなくなったとかの噂話が飛び交う中、発表されたのはアルバムで無く、トム・ショルツが開発した市販用のギター・アンプやエフェクターだけである。
デビューから10年、前作から8年の時を経た1986年にサードアルバム『サード・ステージ』を発表。1stシングル「アマンダ」とアルバムは全米1位に輝く。その後、1994年に『ウォーク・オン』、2002年に『コーポレイト・アメリカ』、2013年に6thアルバム『ライフ、ラブ&ホープ』を発表。長いキャリアの中で、発表したアルバムはたった6枚だけである。
これほどの寡作なバンドでありながら、ライブも続けており一線で活躍できているのは、最初に他にないサウンドを作り上げたからであろう。

J・ガイルズ・バンド The J. Geils Band

ボストンのロック1967年にギターのJ ガイルズを中心にボストンで結成。結成当初はJ・ガイルズ・ブルース・バンドと言うバンド名で活動するが、1970年のデビュー時にバンド名をJ・ガイルズ・バンドとする。R&B色の濃いロックンロールサウンドは「アメリカのストーンズ」と言われ、1975年にアルバム『Nightmares』(1974年)からシングルカットされた「マスタ・ガット・ロスト Must Of Got Lost」が全米ヒットし注目を浴びる。
『Love Stinks』(1980年)から泥臭さが薄れ、ストレートなロックにサウンドが変化し、『フリーズ・フレイム Freeze Frame』(1981年)からシングルカットされたポップチューン「堕ちた天使 Centerfold 」は、ミュージックビデオとの相乗効果で6週間に渡って全米1位を記録する大ヒットを飛ばす。シングル曲はポップになっても、J・ガイルズ・バンドは生粋のライブバンドで、来日公演では会場によって7~9回のアンコールに応えるというクレージーなパフォーマンスで日本人の度肝を抜いた。
しかし、ボーカルのピーター・ウルフが1983年にソロ活動のため脱退したため、バンドは1985年に活動を停止した。

エアロスミス Aerosmith

ボストンのロック今ではアメリカを代表するモンスターバンドとなったエアロスミスは、1970年にボストンで結成され、1973年にレコードデビューする。初期のスタイルは、明らかにヤードバーズ、クリーム、ジェフ・ベック・グループ、レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズといった、アメリカ南部のブルースをロックで演奏する60年代のイギリスのロックバンドの影響を受けたものだった。今でもライブではヤードバーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」(Train Kept a Rollin’)がアンコールやエンディングで演奏され、大量の紙吹雪と共にフィナーレ―を迎える。
『ロックス Rocks』(1976年)が全米3位、『ドロー・ザ・ライン Draw the Line』(1977年)が全米11位と大ヒットを飛ばすが、ボーカルのスティーブン・タイラーとギターのジョー・ペリーの不仲が原因でジョー・ペリーが脱退。スティーブン・タイラーはドラッグで低迷してバンドは空中分解してしまう。スティーブン・タイラーは、新メンバーを補充してバンドを継続するが、栄光は過去のものとなる。
1984年2月、オリジナルメンバーの二人のギタリスト、ジョー・ペリーとブラッド・ウィットフォードが、エアロスミスのボストン公演に訪れ和解。後日、オリジナルメンバーでの再活動が決定し、ゲフィン・レコードから『ダン・ウィズ・ミラーズ Done with Mirrors』(1985年)を発表するが、大きなヒットとはならなかった。
しかし、1986年にヒップホップ・グループのRun-D.M.C.がエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ Walk This Way」をカヴァー。その際、サンプリングせずにレコーディングにスティーブン・タイラーとジョー・ペリーが参加し、ミュージック・ビデオにも出演した。この異色の組み合わせが注目を浴び、全米チャート4位となる。この出来事が、エアロスミスのカムバックの足掛かりとなり、『パーマネント・ヴァケイション Permanent Vacation』(1987年)が全米11位、『パンプ Pump』(1989年)が全米5位につながる。
1990年に『パンプ Pump』からのシングル「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン Janie’s Got a Gun」がグラミー賞のベスト・ロック・パフォーマンス部門を受賞。
そしてついに『ゲット・ア・グリップ Get a Grip』(1993年)がバンド初の全米1位を獲得する。
第36回グラミー賞(1994年)、第37回グラミー賞(1995年)でも受賞し、アメリカを代表するロックバンドとしてのしあがる。
日本でも人気があがり、1995年に日本武道館7日間公演などを行うほどである。
『ナイン・ライヴズ Nine Lives』(1997年)も全米1位となり、1998年の日本ツアーでは“海外アーティスト初”となる4大ドーム(東京・大阪・福岡・名古屋)ツアーを開催した。
映画『アルマゲドン』(1998年)のテーマ曲「ミス・ア・シング I Don’t Want to Miss a Thing」がバンド史上初となる全米シングルチャート1位を獲得する。
1999年、アメリカフロリダ州のウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート内の「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」にエアロスミスをフィーチャーしたアトラクション「ロックンローラー・コースター」がオープン。同年の大晦日に大阪ドームでミレニアム・カウントダウンのライブを行う。
2001年、『第35回スーパーボウル』のハーフタイムショーに出演。バンドは「ロックの殿堂」入りを果たす。
2002年、『2002 FIFAワールドカップ』のオフィシャルコンサートに出演。エアロスミスをリスペクトしているB’zと「トレイン・ケプト・ア・ローリン Train Kept a Rollin’」をアンコールで共演。
2013年の来日では、大阪の街中をぶらつくスティーブン・タイラーが、梅田でストリートライブを行っていたバンド イーゼル芸術工房とストリート・セッションを行い話題となる。

エクストリーム Extreme

ボストンのロックエクストリームは、1985年に結成されたアメリカのロックバンドで、1986年、1987年と2年連続でボストン・ミュージック・アワードの最優秀ハード・ロック/ヘヴィ・メタル・アクトを受賞。
1989年『エクストリーム Extreme』でデビューする。
セカンドアルバム『ポルノグラフィティ Pornograffitti』のアコースティック・バラード「モア・ザン・ワーズ More Than Words」が全米1位を獲得。
16ビートのファンクにのって、ヌーノ・ベッテンコートが弾くテクニカルなギターと、ゲイリー・シェローンのパワフルなボーカルが、このバンドの魅力。
ゲイリー・シェローンがヴァン・ヘイレンに引き抜かれ、バンドは解散するが、ゲイリー・シェローンを加えたヴァン・ヘイレンは稼働しなかった。
その後、再結成をするが、大きなヒットにはつながっていない。
日本のバンドPornograffittiのバンド名は、エクストリームのセカンドアルバム『ポルノグラフィティ Pornograffitti』からの引用。