マイケル・ジョーダン Michael Jordan
マイケル・ジョーダンは、1963年2月17日 ニューヨーク州 ニューヨーク市 ブルックリンに生まれる。ノースカロライナ州 ウィルミントンで育ち、ノースカロライナ大学に進学。NCAA男子バスケットボールトーナメントチャンピオンシップでウィニング・ショットを決め、NCAAチャンピオンに導いた。その後も活躍し、プロ入りを決意し、1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名され入団。この夏、ロサンゼルスで開催された第23回夏季オリンピックに参加し、中心選手の一人として金メダルを獲得。
シカゴ・ブルズ ルーキー時代
マイケル・ジョーダンは、一年目のルーキーであるにも関わらず、シカゴ・ブルズのレギュラーの座を掴む。試合平均得点は28.2点でリーグ上位の成績を記録し、新人ながらオールスター戦出場を果たす。オールスター戦では、高価なアクセサリーを身に付けてプレイするマイケル・ジョーダンを快く思っていないチームメイトから「フリーズ・アウト」(パスを回してもらえない)の仕打ちを受ける。
入団3年目には、試合平均得点は37.1点、シーズン総得点は3,000点を超えを記録しリーグトップの成績を記録する。しかし、シカゴ・ブルズの総合力はそれほど高くなく、優勝する程の力は無かった。
マイケル・ジョーダン以外にマークすべき選手がシカゴ・ブルズに居なかったために、次第にマイケル・ジョーダンは狙い撃ちされるようになる。特にバッドボーイズと呼ばれるほどディフェンスが荒いデトロイト・ピストンズは、徹底したジョーダン・シフトでマイケル・ジョーダンを潰しにかかった。1988年と1989年、シカゴ・ブルズはプレイオフまで進むが、2年ともデトロイト・ピストンズに叩き潰される。これが原因で監督がダグ コリンズからフィル ジャクソンに交代となる。
シカゴ・ブルズ 最初の黄金時代
フィル ジャクソン監督は、シカゴ・ブルズをマイケル・ジョーダンのワンマンプレーのスタイルから、チームプレーのスタイルと変えていく。マイケル・ジョーダンもそのスタイルに順応を見せる。特に、若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントの3人でトライアングル・オフェンスを機能させ、1991年はチーム史上最多の61勝を上げカンファレンス・ファイナルへ進出。このシーズン、マイケル・ジョーダンは得点王を獲得するが、試合平均得点は31.5点で過去数年で最低となる。
カンファレンス・ファイナルで宿敵デトロイト・ピストンズと4年連続の対戦を行い、4勝0敗で大勝してNBAファイナルに進出。スーパースターのマジック・ジョンソンが居るロサンゼルス・レイカーズとの新旧スーパースター対決に勝利し初優勝を飾る。この時、マイケル・ジョーダンはファイナルMVPを受賞。
92年シーズンは、リーグ史上屈指の67勝を果たし、NBAファイナルでポートランド・トレイルブレイザーズを下し連覇。
93年シーズンは、57勝ながらNBAファイナルに進出し、レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多という強敵 フェニックス・サンズと対戦。6試合目に敵地で3度目の優勝を決め、1960年代のボストン・セルティックス以来の「スリーピート」(3連覇)を実現。NBAファイナル歴代最高の試合平均41得点ををあげたマイケル・ジョーダンはMVPを獲得。
引退 そして野球
1993年7月23日、マイケル・ジョーダンの父親が殺害される事件が起こる。精神的なダメージを受けたマイケル・ジョーダンが1993年10月に引退を表明。
バスケットボールを引退したマイケル・ジョーダンは「父と約束した夢」と言ってMLBのシカゴ・ホワイトソックス傘下であるAA級バーミンガム・バロンズ(Birmingham Barons)に入団し大リーグを目指す。10年のブランクがある野球ではすぐに通用しないが、徐々に馴染んでホームランを打つなど成績が向上し「数年で大リーグに昇格するのでは?」と噂されるようになる。
しかし、1994年にMLBストライキが起き、何かとゴタつく球界からマイケル・ジョーダンは去る。
シカゴ・ブルズに復帰
シーズンの半ばにシカゴ・ブルズに復帰し、シーズン残りの17試合に参戦。カンファレンス・セミファイナルでオーランド・マジックと対戦した際、マイケル・ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し敗退してしまう。
シーズンオフ中、マイケル・ジョーダンはバスケットの体型と感覚を取り戻すためにトレーニングし、復帰にかける。
2度目の黄金期
かつて、ラフプレーでジョーダン潰しを仕掛けてきたデトロイト・ピストンズ バッドボーイズの一人であるデニス ロッドマンが、シカゴ・ブルズに入団してくる。リバウンド王としてバスケットボールの能力は高いが、問題も多いトラブルメーカーであるデニス ロッドマンは諸刃の剣であった。しかし、デニス ロッドマンはフィル ジャクソン監督に敬意をはらい、複雑で難解なトライアングル・オフェンスを早々に理解し、チームプレーもこなしてトライアングル・オフェンスをマイケル・ジョーダン、スコッティ ピッペン、デニス ロッドマンの3人で機能させる。最強のトリオの誕生である。
1996年、NBA史上最多72勝でプレーオフ進出し4度目の優勝。マイケル・ジョーダンは通算8度目の得点王、NBAファイナルでMVPを獲得。
1997年、NBAファイナルを制しMVPを獲得。
1998年、GMのジェリー クラウスと現場との確執で揉めるが、NBAファイナルに進出。残り5.2秒でマイケル・ジョーダンが決勝点を決めて2度目のスリーピート(3連覇)という偉業を達成する。
チームの解体で引退
GMのジェリー クラウスと現場の確執はチームの解体に発展。マイケル・ジョーダンは再び引退する。
1999年にシャーロット・ホーネッツ(現ニューオーリンズ・ペリカンズ)のオーナーの一人になるという噂があったが実現しなかった。
ワシントン・ウィザーズの共同オーナーに
2000年、マイケル・ジョーダンはワシントンD.C.に本拠を置くワシントン・ウィザーズ(Washington Wizards)に出資し、オーナーの一人となり、低迷しているチームの再建を一任される。
人事権を有するマイケル・ジョーダンは、チームの監督にマイケル・ジョーダンが若い頃にシカゴ・ブルズの監督だったダグ コリンズを任命。
2001年のNBAドラフトで1位の指名権を獲得しているワシントン・ウィザーズは、クワミ ブラウンを指名する。高卒のルーキーが全体で1位指名されるのはNBA史上初の事で話題になる。
2度目の現役復帰
マイケル・ジョーダンは、NHL(ナショナルホッケーリーグ)のピッツバーグ・ペンギンズ(Pittsburgh Penguins)の再建のためにチームを買い取りオーナーとなったマリオ ルミュー(Mario Lemieux)が現役復帰した事に刺激を受けて、自身も現役復帰に挑むことにする。
高齢による体力や技術の衰えは明らかではあったが、チームを牽引する。
チームの戦績は上向くが勝ち越すことはできず、目標に掲げていたプレイオフ進出は実現しなかった。
2003年のシーズン終了後に引退。
現役引退後にマイケル・ジョーダンは、ワシントン・ウィザーズのエイブ ポリンに解雇される。エイブ ポリンはマイケル・ジョーダンの人気を利用したかったが、現役引退したマイケル・ジョーダンに利用価値が無いと判断した。
シャーロット・ボブキャッツ
2006年、マイケル・ジョーダンは、出身地のノースカロライナ州にできた新チーム、シャーロット・ボブキャッツ(2004年設立)の共同オーナーとなる。
2010年3月17日にマイケル・ジョーダンはボブキャッツを2億7500万ドル(約250億円)で買収し、筆頭オーナーとなる。
元選手がNBAチームの筆頭オーナーとなるのは初めての出来事である。
2014年、シャーロット・ボブキャッツは2010年以来 2度目のプレイオフに進出するが敗退。
シャーロット・ホーネッツ
2014年5月20日、シャーロット・ボブキャッツはシャーロット・ホーネッツにチーム名を変更。
協力:シカゴ観光局
シカゴのスタジアム マップ
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