ミュージアム・オブ・ポップカルチャー
Museum of Pop Culture

ポップ・カルチャーの体験型博物館

ミュージアム・オブ・ポップカルチャー Museum of Pop Culture

シアトルの中心地区シアトル・センターに位置する Museum of Pop Culture、略してMoPOPは、2016年11月までエクスペリエンス・ミュージック・プロジェクトと言う名前の体験型施設であった。
Museum of Pop Cultureの場所と行き方

ミュージアム・オブ・ポップカルチャーシアトル出身の大富豪、マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン氏の投資により、2002年にシアトル・センターのスペース・ニードルのすぐ横にオープンした。現在は、SF映画などのポップカルチャ関連の展示も追加されている。

ミュージアム・オブ・ポップカルチャー

単に展示物を見るだけでなく、巨大なスクリーンに映像を映して、音もコンサートに来ているのかと思うぐらいの迫力で流しているシアターが有ったり、セッションができる設備が有ったりする。
ここに来れば、音楽を知るのではなく、音楽を感じることが出来る。

ミュージアム・オブ・ポップカルチャー

音楽関連の書籍やグッズ等がたくさん販売されている。

シアトル出身のミュージシャン

シアトル出身のミュージシャン

アメリカには、ニューヨークロサンゼルスサンフランシスコシカゴニューオリンズ等、音楽で有名な街が多いが、シアトルも欠かせなミュージック・シティーの一つ。
シアトル出身やシアトルで活躍したミュージシャンで有名なミュージシャンは数多くいるが、その中で、偉大なミューシャンとしてこの3人が挙げられる。
ロックギターの革命児であるジミ・ヘンドリックス、黒人音楽の総監督的存在のクインシー・ジョーンズ、そして時代の寵児であったカート・コバーンである。
この3人にの事を知って、EMPに訪れると、非常に感慨深いものになるだろう。
ちなみに、イギリスでデビューしたジミ・ヘンドリックスのバンド名は、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスだった。

ジミ・ヘンドリックス

ジミ・ヘンドリックスは、1942年、ワシントン州 シアトルに生まれる。
1960年代、エレクトリックギターのサウンドにおいて、革新的な技術と奏法を編み出し、イギリスのミュージシャンに多大なる影響を与えた。
1970年9月18日、27歳という若さで他界。
わずか4年程の活動期間であったにも関わらず、ロックサウンドを大きく変えたミュージシャンとして、今なお多くのミュージシャンからリスペクトされている。
ジミ・ヘンドリックスの詳細

クインシー・ジョーンズ

イリノイ州シカゴ出身。10歳の頃にワシントン州シアトルに転居。当時、ガーフィールド・ハイスクールに通う学生で、この学校の敷地には、現在クインシー・ジョーンズ・パフォーマンス・センターというコンサート会場が建っている。レイ・チャールズとともにクラブなどで演奏し、ボストンのバークリー音楽院に入学するまでシアトルで暮らした。
マイケル・ジャクソン『Off The Wall』からタッグを組み、1982年『Thriller』は、ギネス・ワールド・レコーズに史上最も売れたアルバムとして認定された。
アフリカ飢饉チャリティー USAフォー・アフリカの「We Are The World」をプロデュース。

カート・コバーン

カート・コバーン

カート・コバーンは、1990年代、ワシントン州 シアトルのインディーズレーベルSUB POPからデビューし、グランジバンドとして注目を集めたバンド、ニルヴァーナでボーカルとリードギターを担当。
1994年、27歳という若さで、自宅にてショットガンで自殺。
恵まれない人生を送りながらアンダーグランドで活躍していたが、メジャーレーベルのゲフィン・レコードと契約して出したセカンドアルバムが、いきなり大ヒットしてしまい、スーパースターとなったことから情緒不安定となる。
ニール・ヤングの曲「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞「It’s better to burn out than to fade away(錆びつくより今燃え尽きる方がいい)」が遺書に引用されていた。

協力:シアトル・ワシントン州観光事務所

Museum of Pop Cultureの場所と行き方

MoPOP 325 5th Ave N, Seattle, WA
シアトル-タコマ国際空港からレンタカーで行く場合の一例。

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