ボビー”ブルー”ブランド Bobby”Blue”Bland

ボビー"ブルー"ブランド Bobby"Blue"Bland

ボビー”ブルー”ブランド(Bobby”Blue”Bland)は、アメリカを代表するブルースシンガーの一人で、独特の声とソウルフルな唱法で有名。「ブルースのライオン」(Lion of the Blues)や「ブルースのシナトラ」(Sinatra of the Blues)と呼ばれていた。

ボビー”ブルー”ブランドは、1930年1月27日にメンフィスビールストリートから北東22マイル(35km)の所、ローズマークで生まれた。子供の頃は綿農場で働いていたが、1947年に母親と一緒にメンフィスに移り、そこで地元のゴスペルグループやミニチュアーズ(The Miniatures)で歌い始めた。
活動の場をビールストリートに移し、1951年にモダンレコードで初レコーディングを行い、1952年には、アイク・ターナー(Ike Turner)の提案で、サンスタジオで録音してチェスレーベルからシングルをリリースした。その後、デューク・レコード(Duke Records)と契約し、1955年に最初のシングルをリリースした。
最初のヒットは、1957年に「Farther Up the Road」でR&BチャートNo.1となった。その後、「Little Boy Blue」(1958)、「Cry Cry Cry」、「I Pity The Fool」(1961年のR&BチャートNo.1)、「Turn On Your Love Light」、「That’s The Way LoveIs」(1963年)など、ビルボードのR&Bチャートで23のトップ10ヒットを記録した。
1973年にオーナーのドン・ロベイ(Don Robey)が、デューク・レコードをABCレコードに売却したので、ボビー”ブルー”ブランドはABCレコードから『His California Album』(1973年)、『Dreamer』(1974年)をリリースして成功した。『His California Album』からシングル・カットされた「This Time I’m Gone For Good」は、1964年以来のポップトップ50となり、1973年後半にはR&Bトップ10になった。
1985年、伝統的なマラコレコード(Malaco Records)に移籍し、ツアーを続けながら一連のアルバムを作成した。
1981年にブルースの殿堂入り、1992年にロックンロールの殿堂入り、1997年にグラミー賞を受賞。2012年にメンフィス音楽殿堂入りした。
2013年6月23日、メンフィスの郊外ジャーマンタウンにある自宅で、進行中の病気が原因で、83歳の生涯を閉じた。

ボビー”ブルー”ブランドの像

ボビー"ブルー"ブランド Bobby"Blue"Bland2017年5月12日金曜日に、メンフィスのサウス・メインストリートとDoctor M.L.K.Jr アベニューの交差点の所に、等身大のボビー”ブルー”ブランドの像が建てられた。
ブランドの像を建てる取り組みは、ブルース財団の元社長兼CEOであるジェイ・シーレマン(Jay Sieleman)が主導し、ポール・ベンジャミン(Paul Benjamin)とロジャー・ネイバー(Roger Naber)の助けを借りて、アーティスト、レコードレーベル、クラブオーナー、慈善団体、制作会社、あらゆる種類の起業家から、50,000ドルの寄付を集めた。
像はビールストリートの西の入り口に建つエルビス・プレスリー(Elvis Aron Presley)の像や、ブルース殿堂博物館の前のベンチに腰掛けるリトル・ミルトン(Little Milton)の像で実績のある、アンドレア・ルガー(Andrea Lugar)よって彫刻され、ルガー・ファウンドリー(Lugar Foundry)で鋳造された。
ボビー”ブルー”ブランドの像の場所と行き方

ボズ・スキャッグスの回想

ボズ・スキャッグスがメンフィスのロイヤルスタジオで、アルバム『Memphis』(2013年)をレコーディング中、何度か遊びに来たボビー”ブルー”ブランドは、コントロール・ブースに座ってプレイバックを数曲聞いたあと、実際に歌ってアドバイスをした。「それから、やっと彼と話ができたんだ」とボズがインタビューで語った。

協力:メンフィス市観光局

ボビー”ブルー”ブランドの像の場所と行き方

Bobby”Blue”Bland Statue サウス・メインストリートとDoctor M.L.K.Jr アベニューの交差点

メンフィス国際空港からボビー”ブルー”ブランドの像へ、車(レンタカー)で行く場合の一例。

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