スリーピー・ジョン・エステスの家
Sleepy John Estes Home
スリーピー・ジョン・エステス(Sleepy John Estes)は、1899年1月25日テネシー州リプリー(Ripley)で生まれた、カントリーブルースのシンガーでギタリスト。15歳のとき、家族とともにブラウンズヴィルに移住した。
まるで泣いているような、悲壮感溢れる甲高い声を絞り出すような歌い方が特徴。
スリーピー・ジョンの最後の家は、ウエスト テネシー デルタ ヘリテージ センターの敷地内に移設され、一般に公開されている。この2部屋のショットガンハウスに足を踏み入れると、彼の人生と彼が住んでいた状況について学ぶことができる。
スリーピー・ジョンは、仲間のブラウンズビル・ブルースマンのヤンク・レイチェル(Yank Rachel)とハミー・ニクソン(Hammie Nixon)とともに、ウエスト・テネシー音楽博物館でも紹介されている。
⇒ スリーピー・ジョン・エステスの家の場所と行き方
スリーピー・ジョン・エステス
Sleepy John Estes
スリーピー・ジョン・エステスは、幼い頃から父親からギターを習い、19歳の頃にはプロとして演奏していた。
1929年にメンフィスで行われた、ビクターレコードのセッションが最初のレコーディング。それから数回のセッションに参加するが、その後はレコーディングのチャンスは巡ってこなかったため、1934年にシカゴに移住する。ブラウンズビルのブルースマン、ハミー・ニクソン(Hammie Nixon)と共に、デッカ・レコードのセッションを皮切りに、いくつかのレコーディングの機会を得て人気がでた。
しかし、1940年代になると、カントリー・ブルースのブームは去り、1941年のブラウンズヴィルでのセッションを最後に音楽活動から身を引いた。
1952年にメンフィスのサンスタジオで録音し、短い復帰を果たしたが、活動再開にまでは至らなかった。
カントリー・ブルースの再ブームで復活
1960年代になって、カントリー・ブルースの再ブームが到来し、ブルースマニアや研究者たちがスリーピー・ジョンを探し出し、音楽活動に復帰することになった。スリーピー・ジョンは貧困の末に全盲となっていた。
1964年、1968年にはヨーロッパ・ツアーを行い、ヨーロッパで有名になった。
初来日と憂歌団とのツアー
1970年代に日本でもブルース・ブームが起こり、「第1回ブルース・フェスティバル」(1974年)出演のために、ハミー・ニクソンと共に来日した。
スリーピー・ジョンとハミー・ニクソンは、1976年に再来日し、憂歌団と一緒にツアーを行った。この時のライブ音源は『Blues IS A-LIVE』としてリリースされ、ビデオも発売された。
しかし、来日公演の僅か半年後の1977年6月5日に脳梗塞で帰らぬ人となった。
協力:メンフィス市観光局、ミシシッピ・リバー・カントリー
スリーピー・ジョン・エステスの家の場所と行き方
Sleepy John Estes Home 121 Sunny Hill Cove, Brownsville, TN
メンフィス国際空港からレンタカーで行く場合の一例。
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