スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館
Stax Museum of American Soul Music

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館 Stax Museum of American Soul Music

かつてのソウル・ミュージックの名門レーベルとして知られるスタックス・レコード社の建物が、2003年から博物館として公開された。館内には懐かしいソウルナンバーが流れ、ソウル・ミュージックの原点を展示を通して知ることができる。
スタックス・アメリカンソウル博物館の場所と行き方

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館 Stax Museum of American Soul Music

ソウル・ミュージックの起源、スタックス・レコードの創立からの歴史、スタックス・レコードやその他のソウル・ミュージシャン、サザンソウルやモータウンサウンドの事などソウル・ミュージックに関する”A to Z”を解りやすい展示で見て感じ取ることができる。サザン・ソウルのファンにはたまらない展示が並ぶ。
(写真はアイク&ティナ ターナーの衣装とギター)

ゴスペルから産まれたソウル・ミュージック

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館 Stax Museum of American Soul Music

ソウル・ミュージックのルーツはゴスペル。ゴスペルは奴隷としてアフリカから連れてこられたアフリカ系アメリカ人の信仰から、教会で歌われた特有の讃美歌で、ヨーロッパの讃美歌をベースに、リズムが強調されコール・アンド・レスポンスなどが多用されてゴスペルに生まれ変わった。貧困なために、教会に楽器が無い場合も多く、アカペラとクラッピング(手拍子)で歌われるのも特徴の一つ。
この宗教的な背景には奴隷の歴史や黒人差別が大きく影響しており、スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館では、教会の礼拝所の展示を中心に、音楽だけでなくそのようなアフリカ系アメリカ人の暗黒の歴史も知ることが出来る。
ソウル・ミュージックは、ゴスペルの音楽的な要素を取り入れ、福音ではなく大衆的な歌詞を歌ったものがソウル・ミュージックになったと言われている。ソウルシンガーでクイーン・オブ・ソウル”と呼ばれているアレサ フランクリン(Aretha Franklin)の父親は教会の牧師で、アレサは幼い頃から父の教会でゴスペルを歌っていた。サム クック(Sam Cooke)の父親も教会の牧師で、10代からゴスペル・グループのソウル・スターラーズでリードボーカルを務めていた。他にも、ゴスペル・グループで活動していた経歴を持ち、ゴスペルをルーツに持つソウル・シンガーを挙げればキリが無い。

ソウル・ミュージックの名門レーベル スタックス・レコードの歴史

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館 Stax Museum of American Soul Music

1957年にジム・スチュワートによりテネシー州 メンフィスの北部にスタックス・レコードの前身であるサテライト・レコードが設立された。翌年に彼の姉であるエステル・アクストンが共同オーナーになり、カリフォルニア州に同名のレコード会社がある事から、スチュワートの”St”とアクストンの”Ax”を一つにしてStax(スタックス)と改名。そして、このスタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館がある場所に建っていたキャピトル劇場の跡地に引っ越してきてレコーディング・スタジオを作り、スタックス・レコードとして多くのレコードを世に送り出した。メンフィスの街中では黒人差別が強く残っている時代に、スタックス・レコードでは白人も黒人も一緒になって音楽をプレーしていたのが特徴の一つ。特に初期のスタックスのサウンドを支えていたのは、初期のスタックス・レコードでバックバンドを務めていたブッカー・T & ザ・MG’s という黒人と白人の混成バンド。ブッカー・T & ザ・MG’s とソウル・オブ・キングと呼ばれたオーティス・レディングの組み合わせは、アメリカだけでなくヨーロッパでもブレイクした。大手レコード会社アトランティック・レコードに紹介されたサム & デイヴもヒットを連発し、ブルースシンガー & ギタリストのアルバート・キングブッカー・T & ザ・MG’s と組んでスタックス・レコードでヒット曲を出した。しかし、1967年12月10日にオーティス・レディングが飛行機事故で亡くなったことや、配給会社として契約していたアトランティック・レコードがワーナー・ブラザーズに買収されたのをきっかけに、サム&デイヴはアトランティック・レコードの預かりなので、契約解消と同時にスタックス・レコードを去った。経営が行き詰まったスタックス・レコードをジム・スチュワートはレーベルをガルフ・アンド・ウェスタン社へ売却した。

その後のスタックス・レコード

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館 Stax Museum of American Soul Music

1969年にジム・スチュワートとアル ベルがスタックスを買戻し、サム & デイヴの「Soul Man」「Hold on I’m Comin’」の作者であるアイザック・ヘイズを中心のミュージシャンとしてインディーズ・レーベルとして再始動。アルバム『Hot Buttered Soul』(1969年)がヒットし、映画『黒いジャガー』(1970年)のサウンドトラックはグラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門とゴールデングローブ賞 作曲賞を受賞。
アル ベルは西海岸進出をもくろみ、1972年8月20日にロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催したWatts Summer Festival を成功させ、そのコンサート・ドキュメント映画『Wattstax』(1973年)はゴールデングローブ賞にノミネートされた。
しかし、1972年にCBSとスタックス・レコードの流通契約が崩壊したためにレコードを販売する経路が絶たれ、スタックス・レコードは多大な負債を抱えてしまい、1975年12月19日にスタックス・レコードの建物は押収され、破産を余儀なくされた。1976年の初め、マスターテープとスタックスのレーベルに関する権利がオークションでファンタジーレコードに売却され、ファンタジーレコードは、1977年から1979年にかけてスタックス・レーベルでリリースした。2004年、ビバリーヒルズにあるインディーズのジャズ・レーベルであるコンコード・レコードがスタックス・レコードの音源とレーベルの権利を持つファンタジーレコードを買収し、スタックス・レコードのクラッシック・ナンバーを再発した。
(写真はアイザック・ヘイズのレストアした peacock-blue 1972 Superfly Cadillac El Dorado)

スタジオの崩壊とソウルスビル財団による歴史保全

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館 Stax Museum of American Soul Music

1975年に押収されたスタックス・レコードの建物は1981年にキリスト教の教会に売られたが、1989年まで空き家のままで、最終的に取り壊された。1991年に建物があった前に歴史的マーカーが建てられ、1997年に書籍「Soulsville USA:Stax Records Story」が出版された。
1990年代後半になって、地元の指導者がソウルスビル財団を立ち上げ、スタックス・レコードの歴史と文化を残すために活動を開始。2000年にスタックス・ミュージック・アカデミーをスタックス・レコードの跡地に隣接する場所に開校し質の高い音楽教育プログラムを提供。2003年には、スタックス・レコードの跡地にスタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館をオープンさせた。 2005年、チャーター・スクール(公的認可の教育学校)としてソウルズビル・チャータースクールを開校させた。
ソウルスビル財団は、今なおスタックスの音楽的な歴史を保全し、文化をスクールで継承している。

オーティス・レディング Otis Redding

オーティス・レディング Otis Redding1941年9月9日 ジョージア州ドーソン出身。
ソウルを語るには、オーティスを抜きに語ることはできません。ビッグオーと呼ばれる大きな体格の持ち主で、その体格を活かした声量と、独特の歌唱法で聞く者を圧倒しました。
オーティスは、アメリカだけでなくヨーロッパなどでも人気があり、遠征ライブを行っています。
ライブでは、ビートルズの「Day Tripper」やローリング・ストーンズの「(I Can’t Get No)Satisfaction」を独特のシャウトで観客を沸かせている。
1967年12月10日、飛行機事故で死亡。
 
オーティスは日本のシンガーにも影響を与えている。
その代表が上田正樹と忌野清志郎である。
デビュー当時の上田正樹は和製オーティスと呼ばれ、上田正樹とサウストゥサウスのライブアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』にオーティスの「お前を離さない」を収録している。
忌野清志郎は、ライブの際に「gotta(ガッタ)」を多用するが、これはオーティスの節回しを引用したものである。

サム&デイヴ Sam & Dave

サム&デイヴ Sam & Daveサミュエル デイヴィッド ムーアとデイヴ プレイターのデュオ・ユニット。サムが高音パート(テナー)、デイヴが低音パート(テナー、バリトン)を担当する。
「Hold On! I’m A Comin’」「Soul Man 」等のヒット曲がある。活動期間は、1961年~1981年。
デイヴは1988年に交通事故で他界するが、サムはソロ・アーティストとして活動を再開する。
1992年にサム&デイヴは、ロックの殿堂入りを果たす。
サム ムーアの、エリック・クラプトン、ブルース・スプリングスティーン等とコラボレーションを繰り広げた『オーヴァーナイト・センセーショナル』(2006年)はグラミー賞を獲得する。
忌野清志郎が若かりし頃、貧乏でコンサートに行けないので、サム&デイブが初来日した時、荷物持ちや雑用をすると言ってツアーバスに乗り込みコンサート会場にもぐりこんだエピソードがある。その後、1982年にRCサクセションとサム&デイブが共演した時に、バックステージで清志郎に挨拶されて、スターとなった清志郎に驚く。
その後も、清志郎はサム ムーアのステージに飛び入りしたりして親交を深めていた。
フジロック’2011のステージで、サム ムーアは「キヨシローに捧げる」と言って「ザット・ラッキー・オールド・サン (That Lucky Old Sun)」を歌った。

アルバート・キング Albert King

アルバート・キング Albert Kingミシシッピ州インディアノーラ出身のブルースシンガー&ギタリスト。B.B.キング、フレディー キングとアルバート・キングは、ブルース・ギター3大キングと言われている。チョーキングを多用したプレイはエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスに影響を与えた。
1950年頃から音楽活動をしていたが、大きな成果を得る事はなかったが、1966年に転機が訪れる。スタックス・レコードと契約し、ブッカー・T&ザ・MG’sがサポートすることにより、ファンキーでソウルフルに変貌し「Crosscut Saw」や「Born Under A Bad Sign」がヒットする。
「Born Under A Bad Sign」は、イギリスのクリームがカヴァーし更に広まる。イギリスのハードロックバンド、ホワイトスネイクのヒット曲「Fool for Your Loving」の歌い出しの「I was Born Under A Bad Sign」の歌詞は「Born Under A Bad Sign」の引用である。
1990年、アイルランド出身のブルースロッカーのゲイリー ムーアのアルバム『Still Got the Blues』にゲスト出演したり、1991年の自身のアルバム『Red House』にジョー・ウォルシュを迎え、ロックっぽいアプローチも見せる。
1992年12月21日にメンフィスで心臓発作のため急逝。
2013年、ロックの殿堂入りを果たす。

ブッカー・T & ザ・MG’s Booker T. & the M.G.’s

ブッカー・T & ザ・MG's Booker T. & the M.G.'sスタックスを成功に導いたインストゥルメンタル・グループで、スタックスのスタジオ・バンド。メンバーは、ブッカー・T・ジョーンズ(キーボード)、スティーヴ クロッパー(ギター)、アル ジャクソン(ドラム)、ドナルド ダック ダン(ベース)である。ミュージシャンのバックだけでなく、バンドの曲「Green Onions」は、ビルボード・R&Bチャート1位、ポップ・チャート3位の大ヒットとなる。
スティーヴ クロッパーとドナルド ダック ダンは、映画『ブルース・ブラザース』『ブルース・ブラザース2000』に出演。ブルース・ブラザース バンドにも参加。
1992年、ロックの殿堂入り。
 
忌野清志郎は大のオーティス・レディングのファンで、ソロ・アルバムの録音メンバーにブッカー・T&ザ・MG’sとの競演を希望する。レコーディングはテネシー州メンフィスで行われ、録音で滞在中にメンフィス名誉市民の称号が忌野清志郎に贈られた。プロデュースはクロッパーで、アルバムタイトルはそのままズバリの『Memphis(メンフィス)』

スティーブ クロッパー Steve Cropper

スティーブ クロッパー Steve Cropperスティーヴ クロッパーは、1941年にミズーリ州で生まれるが、一家はスティーヴが9歳の時にテネシー州メンフィスに引っ越す。
フェンダーのテレキャスターと、ピービー社のテレキャスターベースのカスタムギターを愛用。
ブッカー・T & ザ・MG’sのギタリストであるが、いろいろなミュージシャンのプロデュスをしたり、作曲もこなす。
オーティス・レディングの遺作「(Sittin’ on) The Dock of the Bay」(ドック・オブ・ベイ)は、オーティスとの共作。録音時に、今までと違うスタイルの曲調にベースのドナルド ダック ダンが違和感を感じるが、オーティスは「この曲は、僕の初の1位の曲になるからね」と自信満々であった。
メインのボーカルを録り終えたオーティスはツアーに出るが、飛行機の墜落事故で帰らぬ人となる。「(Sittin’ on) The Dock of the Bay」(ドック・オブ・ベイ)は、オーティスの死後に発売され、ビルボード・チャート1位、この年の年間ランキングでは6位となる。後に、スティーヴ クロッパーはこの曲が未完成であったことを明かす。ツアーに出る前に、オーティスはスティーブに「帰ってきたらコーラスを録るからね。楽しみだよ。」と言ってツアーに出たらしい。曲を発表することになった際、スティーブは、オーティスが入れるつもりだったコーラスがどのようなものか聞いていなかったので悩む。悩んだ末に、コーラスではなく、海鳥の鳴き声を入れたと、後に明かしている。

協力:メンフィス市観光局

スタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館の場所と行き方

Stax Museum of American Soul Music 926 E. McLemore Ave Memphis, TN

メンフィス国際空港からスタックス・アメリカン ソウル ミュージック博物館へ、車(レンタカー)で行く場合の一例。

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